発達障がい当事者としての人生振り返り:出生から小学校就学まで【其之壱】

これから、筆者のこれまでの人生を出生時まで遡り、どんな育ち方をし、どんな状況で精神疾患を発症し、その後発達障がいが分かったのかを、複数の回に分けて、シリーズものとして詳しく振り返ってみたい。プロフィールで私自身のことを簡単に触れてはいるが、この記事は筆者自身の備忘録でもあり、いずれ何らかの形で残しておきたいと思っていたものである。

初回の本稿では、出生時から小学校に就学するまでを振り返ってみたい。
幼少時のことは私自身の記憶にほとんどなく、亡祖母や伯母に聞きかじって知ったことが多い。そのため、後日発達障がいの診断を受けるときには、手掛かりとなる情報が少なくて困った。
なお、執筆にあたって個人情報が特定されないよう、日付や地名を省いたりぼかしたりすることもあるが、どうぞご了承いただきたい。

出生

筆者は、1970年代前半のある日に、北陸地方のある地方都市にある小さな病院で生まれた(亡実母の実家のあった街。現在、その病院は残っていない)。
その後、東京都区内に戻って、4歳までは両親のもとで育ってきた。

(画像出所:ぱくたそ)

両親と一緒とはいえ、普通の家庭に生まれ育ったわけではなく、亡父親はろくに仕事をしていなかった人で、また、亡実母は水商売をしていて、昼夜逆転生活で、二人とも飲酒や喫煙をしていたようである。そんなわけで、平和な家庭とは程遠く、DVがあったのではないかと考えている。いわゆる、機能不全家庭といったところである。そんなわけで、結婚生活が長く続くことはなく、両親は筆者が4歳の時に協議離婚をした。亡父は、常々「結婚に失敗した」と言っていた。

実母の面倒見は確かに良くなかったようで、母乳ではなく人工のミルクで育ったと聞いたし、手料理を食べた記憶も全くない。父親や父方の祖母いわく、母親はかなりの面倒臭がり屋で、子供の面倒をろくに見なかったそうである。(客観的には、父親や祖母の、実母に対する態度も大きな問題だったかと思う。)

母子健康手帳が発達障がい診断の手がかりに

筆者が大きくなってから亡祖母に渡されたのが、実母から預かっていた母子健康手帳である。
筆者の幼少時の状況が分かる数少ない資料である。

その母子手帳を見ると、自然分娩ではなくて、医師が出産に介在していた。ただし、特に未熟児というわけではなく、早産というわけでもなく、ごく普通に生まれてきた。

2歳になるまでは身体的にも精神的にも普通に発育していたようである。

しかし、2歳以降の状況について手帳への記載がなくなって、3歳から5歳頃の自身の状況が不明である。
手帳に記載されている精神と運動機能の発達の表から、3歳以降の発育が特に鍵となっていることが分かる。
友達と一緒に遊ぶとか、ごっこ遊びをするとか、徐々に社会性を身に着けていく段階になっての発育状況がよくわからず、発達障がいの見立ての支障になった。少なくとも5歳の時までにそれらのことができた記憶がないので、発達が遅れていたことは確かである。

そして両親が協議離婚

現在では離婚がありふれたことになっているが(決して望ましい状況とは言えないが)、1970年代の離婚はまだそんなにメジャーなことではなかった。
それにもかかわらず、筆者が4歳の時に両親が協議離婚をした。
離婚をする場合、一般的には母親が子供を引き取ってシングルマザーとして子供を育てることが多いと思うが、筆者の場合は父親が引き取る形で離婚が成立した珍しいケースであった。

実母が父親の実家まで一緒についてきてくれて、その後実母が消えてしまったのが、実母と過ごした最後だった記憶がある。泣いても泣ききれないような悲しさだったと覚えている。

実母の所在はその後不明となってしまったが、伯母から聞いた話では、しばらくの間東京都区内で単身で暮らし、不妊手術を施されたそうである。
その後、1回の法律婚&裁判離婚、さらに20年余りにわたる別のパートナーとの事実婚の後に、60代後半で死亡していたことが最近分かった。実母はかなり数奇な人生を送った人だったのかなと思った。(2番目の夫とは離婚裁判を経たために、後のパートナーとすぐに入籍できなかったものと推測する。)

不妊手術を受けたということから、旧優生保護法がまだ有効だった時代でもあり、ひょっとして障害児(筆者のこと)を生んでしまったためにそれ以上の子供が産めないようにしたのかなと推察できなくはない。

父親の再婚・父方の実家での生活開始

筆者の実母との離婚の翌年、父親は別の女性と再婚し、彼女がいわゆる義母として、成人するまで筆者にかかわるようになった。
つまり、父親の再婚相手である義母にとっては、別の女の子供ということで、結局は当初面倒を見たくないようであった。

4歳で両親が離婚したまでの記憶はほとんどないが、少なくとも友達と遊んだりしたことはなく、公園で一人で遊んでいたら別の子供たちにその公園を追い出されてしまったという記憶がある。4歳でも言葉があまり出てこず、泣いてばかりの子供だったといったことしか思い出せない。

一時期、父親と再婚相手の義母、そして私の三人で暮らしたのだが、長続きすることはなく、結局筆者の面倒を父方の祖父・祖母が見てくれるようになった。

父親の実家は元々漁師町で漁業を営んだ後、漁業権の放棄のために個人商店の経営に転業していて、祖母とそのお店に一緒にいるという生活だった。
この時点で両親不在になってしまったのだが、祖父・祖母のもとで、ようやく安全に生活することができるようになった。

その後まもなく父親不在で祖父・祖母から面倒を見てもらい成長したのだが、筆者が小学校後半になるまで父親の記憶がない。実はその数年間、訳があって消えていたのだが、その話は次回に譲りたい。

5歳で幼稚園に入ったが

筆者の精神的な発達が致命的に遅れていたため、受け入れてくれる幼稚園がほとんどなかったそうである。
唯一受け入れてくれた幼稚園に年中組から入り、2年間の幼稚園生活を経験した。

幼稚園も年中組ともなると、児童が協力して学芸会などのイベントをこなせるようになるものであるが、筆者はその輪に全く入ることができずに一人で過ごしていた。また、自宅以外での排泄習慣も十分ではなかったようで、外では適切にできなかったようである。
お昼の給食のお弁当も、おかずを全く食べることができず、白いご飯だけを食べていた記憶があるのだが、振り返れば味覚過敏がかなりひどかったのかなと思う。発達障がいが分かるまでは、ただの好き嫌いの多い子と言うことで、ただただ苦労したのだが。。。

言葉の発達が特に遅れていたようで、お世話になった伯母に連れて行ってもらったのが、どうやら言葉の教室だったようで、専門家に何らかの療育を受けていたのかなと考えられる。その伯母は、私が障がいがあることを一切認めなくて、余計に苦しんだのだが。。。

当時は、とにかく体が弱かった。よく風邪をひくし、熱を出すし(笑)。
小学校就学直前には、気管支喘息で病院に長く入院した。出生から小学校就学までは、体が健康だったとは決して言えなかった。

小学校は通常学級へ

幼稚園での2年間の生活もほどなく終わり、小学校に進むことになった。
就学前面談の様子などは、本人である筆者が記憶しているわけがないが、1970年代当時は発達障がいの概念もほとんどなく、ただの生育が遅れた子という扱いだったかと思う。それでも、就学猶予という状況とは遠く、普通に就学となった。
小学校は養護学校ではなく、一般の小学校の通常学級に進むことになったのだが、前途多難な小学校時代になった。

小学校時代以降のお話は、次回のお楽しみとされたい。